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ここのところミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団は俄かに慌ただしい。
15日後に迫った定期公演の演目であるピアノ協奏曲でピアノを弾く予定だったピアニストが、急病によりキャンセルしてきたのである。
取りあえずその日はピアニストを交えてリハーサルをする初日だったため、他の演奏曲の練習が終わった後に急遽、その次の定期公演の曲目のミーティングをすることになった。
団員たちが揃っている練習室のスピーカーからは「イェーガーの勝利」が流れている。
5分40秒の曲が終わるとカン・マエは手に持っていたオーディオのリモコンの停止ボタンを押した。
そして指揮台の保護パイプに乗せていた臀部を降ろして譜面台の前にゆっくりと立つ。
「二曲目に演奏するホルストの『惑星』は私たち、クラシックに携わる者であれば有名すぎる曲なので説明は不要だと思いますが…」
カン・マエは譜面台に置かれた楽譜を手に取り顔の横に掲げ、団員たちの顔を見渡しながら話を続ける。
「一曲目に演奏するこの曲は1983年のアメリカ映画『ライトスタッフ』のテーマソングです。
この映画を見たことがある人は?」
コンマスをはじめとする、数名の団員達の手が挙げられた。
「映画の内容は史実をもとにしたフィクション…アメリカのNASAで有人宇宙飛行計画に挑む飛行士たち、そして人類で初めて音速を超えたパイロットのチャック・イェーガーの話でもあります。
タイトルの『ライトスタッフ』とは“己にしかない正しい資質”という意味で、宇宙への熱い想いを描いた作品です。
私は小さいころから指揮者を目指していたので宇宙飛行士を夢見たことはありませんが、男であるなら今まで一度くらいは宇宙飛行士になりたいと思ったことがあるでしょう。
宇宙飛行士になることは叶わなくても、宇宙に行ってみたいと思うのは男なら当たり前です」
指揮者のその言葉に男性団員たちの多くが…中には女性団員も頷いていた。
「その男たちの熱い想いを、漲(みなぎ)る情熱を、溢れるロマンを……作曲家のビル・コンティはこの『イェーガーの勝利』で見事に作り上げました。
私たちはその思いを楽器で表わさねばなりません。
映画のタイトル通り、私たちは果たしてこの曲を演奏するに相応しい“正しい資質”であるのか――試されてるのです」
云い終わると掲げていた楽譜を下に降ろした。
「今日はこれまで。
次から演奏に入ります。
丁度明日と明後日は休日です、しっかりと練習しておくように」
カン・マエが指揮台を下りようと譜面台に置かれた指揮棒を手にしようとしたところ、
「ヘル・カン、代わりのピアニストはまだ決まりそうにないのですか?」
チェロ奏者の女性が訊いてきた。
「ええ、希望するピアニストの方々は皆さんスケジュールの都合がつかずに断られました。
他のピアニストに交渉を進めるつもりです。
決まり次第、発表します」
するといつもは大人しいヴィオラ奏者のアウグスティンがこう切り出した。
「あの…マエストロって、ピアノ弾けるんですよね?
今度のピアノ協奏曲、マエストロが希望するピアニストがダメだったら、弾き振り…なんてどうですか?」
その言葉にフィル団員全員がざわめき…特にファゴット奏者のアレッサンドロ・カニーニョは飛び上がらんばかりに興奮した。
「そうだよ!弾き振り!!
アウグ~!お前、すっごくいいこと云ったな!!」
「悪いがそれは断る。
私は指揮者だ、ピアニストではない。
それに世の中には素晴らしいピアニストは沢山いる。
そういう人を差し置いて私が弾くのは御免こうむりたい」
カン・マエは冷静に言い放つと、指揮棒と楽譜を手に持ち練習室を去って行った。
真夏の夜の夢
8月初旬のミュンヘンは暑い日もあるが、母国と違って湿度も低く爽やかで過ごしやすい。
カン・マエは自宅の駐車場に停めた車から降りると、木々の匂いが鼻をくすぐった。
どうやら今日の昼、家の木々の剪定や芝生を刈ったようで、いつも以上に庭が整えられていた。
美しくなった庭の様子を満足げな表情で眺めながら、軽やかな足取りで玄関へ向かっていく。
「先生!
今度の定期公演で弾き振りをするんですか?!」
帰宅すると開口一番、妻のトゥ・ルミがカン・マエに向かって云ってきた。
「……何?」
「だから弾き振りです!」
「それなら断った」
「……え?」
「断った、と云ったんだ。
弾き振りなんて大変なこと、やってられるか。
大体にして俺の柄じゃないだろう」
そう語気を強めて云うと満面の笑顔だったルミのそれは一気にしゅん、とした顔つきになり…その姿は散歩に連れて行ってもらえると思って千切れんばかりに尻尾を振っていたトーベンが、「散歩じゃないぞ」と云われると一気に尻尾が垂れ下がり、哀しそうな目つきになった時と重なり、カン・マエは思わず吹き出して笑いそうになった。
「…折角先生が舞台でピアノを弾いてる姿が見れると思ったのに…」
「お前はこの話、誰から聞いたんだ…というのは愚問だな、どうせアレッサンドロだろう」
「うん……」
「電話してきたのか?」
「うん。
『マエストロ、今度の公演で弾き振りをしてくれるかも…』って」
「あのイタリア男……さっきのさっきでもうルミに電話で話してきたのか。
誰かアイツの口にファスナーをつけて塞いでほしいものだな。
大体にしてアレッサンドロには、私のピアノを聴かせてやったことがあるからそれで十分じゃないか」
「家で弾くのと舞台で弾くのとでは違うと思います」
「――兎も角、弾き振りはやらない。
数分の曲ならまだしも、40分近くもある曲だぞ。
そんな曲を弾き振りなんかしたら疲労困憊して他の曲の指揮が出来なくなるからな」
そう云い終わると彼は2階のクローゼットルームに向かった。
■
それから休日を挟んで3日後の練習日、「イェーガーの勝利」の演奏をいざ始めようとしたその時、
「マエストロ…俺は俺の首を賭けて、直訴します!!
お願いします、どうか弾き振りしてください!!
そうじゃなきゃ、俺はファゴットの演奏をしません!」
アレッサンドロが突如立ち上がりそう叫んだ。
珍しく真面目な顔をするアレッサンドロを数秒見据えた後、カン・マエは
「そうか…。
それではアレッサンドロ・カニーニョ君、残念ながら君はクビだな。
今までご苦労だった。
退職金うんぬんの話は事務所で訊いてくれたまえ」
と涼しい顔で云ってのけた。
「えっ…ちょっと……」
「首を賭けると云ったのはお前だぞ」
カン・マエは皮肉めいた笑みを浮かべているので冗談だというのは分かっているが、アレッサンドロは椅子に乱暴に腰掛けると不服そうな顔をして今となっては第2の恋人になったファゴットを抱きしめた。
その遣り取りを見ていたコンマスのヴィクトール・ルードヴィッヒ。
「…まぁアレッサンドロの懇願の仕方は多少強引だが…」
とカン・マエの顔をしかと捉え。
「ゴヌ、私も君の弾き振りを一度、聴いてみたいと以前から思っていた。
どうだ、やってみないか?」
「………」
「君の手腕ならなんてことないだろう。
昔の音楽家は弾き振りするのは当たり前だった。
モーツァルトやバッハ、君が敬愛するベートーベンも…耳が聞こえてた時はやっていただろう。
昨今ではバレンボイムやベライアもやってる。
彼らに出来て、君に出来んことはない」
「出来ないわけではありません。
ただ私の……」
「流儀ではない、と云いたいんだろう。
私としては、君が指揮者として更なる階段を上るいい経験になると思うのだが…どうだろうか?」
「………」
コンマスのその言葉にカン・マエは腕を組んで瞑目した。
それから30秒ほど考え込んだのち。
「…公演まであと12日ある。
こちらが希望するピアニストが来てくれることになれば、問題は解決します」
そう云われたコンマスは小さく肩を竦めた。
「取りあえず今日はその次の公演の曲の練習をしましょう。
時間は余りあるように思えても限りあるものです。
1分も無駄には出来ません。
皆さん、練習はしてきましたか?
それでは始めましょう」
カン・マエは「イェーガーの勝利」の楽譜を開くと、凛とした表情で指揮棒を振り始めた。
練習が終わり、ホルン奏者のウルフ・メトフェッセルが廊下を歩いていると指揮者執務室からカン・マエが出てきた。
「あぁ、ウルフ。
今、少しだけ時間はあるか?」
「大丈夫ですよ、どうしました?」
「執務机を動かすのを手伝ってほしいのだが…」
「構いませんよ」
二人は部屋に入ると執務机の場所に向かう。
「机をあと30センチほど右にずらしたいのだが…。
ひとりで机を引きずると新しいカーペットを傷めてしまいそうで嫌でな」
それからカン・マエの指示で机を動かし終えた後、
「…マエストロ、弾き振りはしないんですか?
アレックスはどうしてもマエストロにやって欲しいみたいですよ」
ウルフのその言葉にカン・マエは呆れた顔でふぅっと息を吐く。
「アレッサンドロか…。
アイツは何故あんなに私に絡むんだ?」
「そりゃあアイツはマエストロのことが大好きですからね。
アレックスはマエストロが『恋人と別れろ』なんて命令を下せば、その通りにすると思いますよ。
そのくらいマエストロのことが好きなんです」
「私を好き?
アイツが好きなのはルミやトーベンだろう?」
カン・マエが云うと、今度はウルフが呆れたような笑みを浮かべた。
「まったく…マエストロ、貴方という人は…」
それから小さく頭(かぶり)を振り
「貴方のことが好きだから、アイツは貴方を2度も庇ったんですよ。
ルミやトーベンが好きだからマエストロを助けた、なんて、アイツはそんな頭が回るヤツじゃないです。
単細胞ですから」
「………」
カン・マエは眉を顰めて信じられん、とでも云いたげな怪訝な顔でウルフを見つめている。
「―マエストロ、何故アイツが貴方を2度も助けるほど貴方に傾倒してるか、理由を知りませんよね?」
「傾倒?」
「アイツは学生時代、何もかも上手くいかなくて自暴自棄になって、自殺まで考えていたそうです。
それを思い止まらせたのは貴方なんですよ。
貴方が指揮したコンサートを聴いて心から感動して、『いつかマエストロ・カン・ゴヌの指揮の下(もと)で演奏したい』という思いから今のアイツがあるんです」
「………」
「もしその時にマエストロのコンサートに行ってなかったら、間違いなくアイツは今、ここには居ません。
自ら命を絶つことはしていなくても、ファゴットは捨てていたでしょうし、恐らく自堕落な生活を送るどうしようもない人間になってただろう…と、アイツは自分で云ってます」
ウルフが云ったことにカン・マエは何と云っていいか分からず、先ほどから表情は微塵も変わってはいないがどうやら困惑しているようだ。
「それじゃあ、俺は失礼します。
今、云ったことはアレックスからきつく口止めされてたことなんで、聞かなかったことにしてくださいね」
「……あぁ」
ウルフは執務室を出ようとドアへ向かうと、途中で立ち止まって振り返り、
「それと…マエストロが好きなのはアレックスだけじゃありません。
コンマスをはじめとする、団員達みんなが貴方が好きだし敬意を表してます。
――マエストロ、貴方は自分が好意を持たれる人物であるということを、もっと自覚すべきです」
柔らかな笑みを浮かべながらそう云うと部屋を出て行った。
カン・マエの表情は固まったまま、暫くその場に立ちすくんでいた。
■
その日の帰宅後、夕食を終えたカン・マエはソファで寛ぎながらぼんやりとテレビに映し出されているニュース番組を見ていた。
ルミはカン・マエの前にワインとグラス、チーズを置くと彼の横に座ってグラスにワインを注ぐ。
グラスの中で揺蕩う緋色を見ながらカン・マエは
「弾き振り…か」
ボソリ、と小さく呟いた。
ルミは片方しか効かない耳であるはずなのに、その言葉に大きく反応する。
「するんですかっ?」
「………」
「ね、弾き振り、してくれるの?!」
その大きな瞳は途端にキラキラと輝きだした。
「……お前はどう思う?」
「どうって?」
「俺が弾き振りをする、ということに対してだ」
「……?
先生が弾き振りをするのに、何か問題があるんですか?」
「そういうわけではないが…」
「先生…。
私、今しかないと思うんです」
「今しかない?
何がだ?」
「この子、先生が指揮する音楽が生で聴けるのって、お腹の中に居る“今”だと思うんです」
ルミは8か月になりだいぶ膨らんできたお腹を撫で、その顔は慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
知り合った頃は少女のような屈託ない笑顔を振りまいていた彼女だが、カン・マエと付き合うようになり、全てを包み込むような柔らかい笑顔をすることも多くなった。
「お腹に居る今を逃したら、この子は当分コンサートには行けないじゃない?
先月も先々月もコンサートには行ったけど、弾き振りなんて稀なこと、先生はもうしないでしょ?」
「………」
「8か月にもなれば耳ももう十分に聞こえてるだろうし…だから聴かせてあげたいんです。
そりゃ、確かに今までも家で先生のピアノをたくさん聴かせてあげてるけど…協奏曲はやっぱり違うじゃないですか。
『いつもは孤独なピアノの音だけど、他の楽器とも一緒に共演できるのよ。あなたのパパはこんな素敵な音を奏でるのよ』って」
「………」
「それに何より、私が先生が弾き振りをする姿を見てみたいんです」
「………」
「……ね、先生?」
「……12日…か」
「はい?」
「――公演まで間に合うか?
全部で第3楽章、30分以上あるピアノ協奏曲だぞ。
あと2週間もない…」
その言葉に途端、ルミの顔は真面目な顔になり、
「――!!
できます!
先生なら絶対にできます!!
その為には私、全力で先生をサポートしますから!!」
息巻くように云い終えた後、無言のカン・マエを固唾を呑むように見つめている。
「………」
カン・マエは何も返事をしないままテーブルの上の携帯に手を伸ばすと、コンマスに電話をかけ始めた。
ルミの顔は心底嬉しそうなものになり、カン・マエが電話をしている姿をずっと見つめていた。
花の香りが漂ってきそうな優しい笑みを浮かべる妻の姿を見ながら、カン・マエは「やっぱり俺はルミには甘いな…」と心の中で呟くのだった。
■
公演日当日。
カン・マエは弾き振りの曲のみを演奏することになっており、前の3曲は副指揮者がタクトを握った。
いつもであれば副指揮者の演奏を客席や舞台袖から見るカン・マエであるが、本日は集中するため控室にもうずっと籠っている。
カン・マエが演奏する曲はルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン作曲「ピアノ協奏曲第1番」。
1795年3月29日にウィーン芸術家協会において行なわれたベートーベンのウィーンでのデビューコンサートで、アントニオ・サリエリの指揮のもと初演されたものとされている曲である。
「第1番」と銘打ってあるが実際は「第2番」より後に発表された曲で、第2番の完成度が低くそれに不満だったベートーベンが第1番を作ったという逸話もある。
カン・マエはソファに座って瞑目しながら、先ほどから肘掛に手を置いて指を動かしている。
この12日間、彼は寝る間も惜しんで練習してきた。
こんなにも長い時間、連日ピアノに向かい続けたのは…ウィーンの音大のピアノ科に居た頃に1位を獲ったピアノ・コンクールの練習の時以来である。
あのコンクール以降、彼は指揮科に転科したため、昔ほどピアノを弾くことはなくなっていた。
とは云っても、少しでも時間があるとピアノを弾くことがいつの間にか彼の習慣になっていたので、腕は廃れてはいないと思ってはいるが…いざコンサートで弾くとなるとそれはまた別の話である。
しかも今回は自分は生涯しないであろうと思っていた「弾き振り」である。
ピアニストとしても指揮者としても責任重大だ。
生来、肝が据わっている彼であるのでプレッシャーというものには縁がないと思っていたが珍しく胸の辺りがムカつき、昼食も半分残してしまった。
目を開いて膝の上の楽譜を見、音符を追いながら何度か大きく深呼吸をする。
それから再び目を瞑って指で肘掛を叩き始めた。
「ヘル・カン!もうすぐ出番ですので」
声を掛けられて気付くとドアが開いており、スタッフが顔だけを覗かせていた。
集中のあまりノックの音に気付かなかったようだ。
「…すぐ行く」
カン・マエはギュッと両手で拳を作ると、ソファを立ち上がった。
ベートーベンの「ピアノ協奏曲第1番」は楽器編成はヴァイオリン10、ヴィオラ4、チェロ3、コントラバス2の弦五部にフルート1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ…と比較的少人数で演奏されるコンツェルトである。
その為いつもよりも舞台が広く感じられる。
今日はこのコンサートが始まる前に、最初の3曲は常任指揮者であるマエストロ・カン・ゴヌの指揮ではなく副指揮者であること、4曲目のピアノ協奏曲は予定していたピアニストが弾くのではなくマエストロ・カン・ゴヌが「弾き振り」することが事前にアナウンスされていた。
「弾き振り」のアナウンスがされた時は、会場内が大きくどよめいたという話だ。
その所為だろうか…カン・マエが舞台袖から出てきた時、いつもより大きな拍手で迎えられた気がする。
コンマスと握手を交わして指揮台に上り、客席を見て一礼する。
顔を上げてトゥ・ルミがいつも居る席を見ると、心配そうな面持ちをしているのが見て取れた。
(あいつ…なんて顔してるんだ…。
そんなに俺が信用できないのか?)
振り返って舞台に身体を向けると思わず片頬に皺を作り、
(…まったく、あんな顔されたら、絶対に失敗が出来なくなったじゃないか…)
と思ったが何故か心が幾分か軽くなるのが感じられた。
ピアノ越しに見えるファゴットの席にはいつもより目を輝かせたアレッサンドロ、ホルン首席であるウルフも居る。
コンマスを見ると向こうはニヤッとして頷いたので、カン・マエもそれに応えるかのように彼特有の笑みを作った。
そして両の腕をスッと上げ、円を描くように指揮を始めると奏者たちは優雅な音が奏で始めた。
曲が始まってから3分近く経った時……カン・マエは指揮台を下りるとすぐ正面に置いてある大屋根が外されたピアノへと向かう。
椅子に座ると数秒の間腕を振って指揮をし、他の奏者たちが一旦演奏を止めると…カン・マエは鍵盤に指を置いて鍵盤をたたき始めた。
爽快で明朗な旋律を、カン・マエは躍動させた指でC音を連打していく。
普段は気難しそうな顔をした指揮者が奏でる美しいピアノの音色に、思わず感嘆の溜息をつく観客が多く居る。
演奏が始まった頃には心配で高鳴る胸を抑えながら聴いていたルミも徐々に柔らかい表情になり、目を閉じてお腹を優しく撫ではじめた。
(今夜のこの演奏は、私のことを少しでも想ってくれている全ての者に捧げよう――)
カン・マエはそう思いながら弾き続けた。
そして37分に及ぶ演奏が無事に終わり―――カン・マエは大きく振っていた腕をゆっくりと下し、椅子を立ち上がる。
客席を振り返る彼の額からは幾すじもの汗が滴り落ちていた。
その黒い瞳は彼がこの世で唯一愛する人へと向けられている。
客席に座る愛妻の手にはハンカチが握られ、大きな瞳にはカン・マエが舞台で素晴らしい演奏をした感動と嬉しさ、そして安堵で潤んでいた。
コンマスであるヴィクトールに歩み寄ると二人はいつもよりも硬く握手を交わす。
カン・マエの片方の口角は満足そうに上がっており、ヴィクトールは大きく頷いてカン・マエの眼をしかと捉えた。
ガスタイク・フィルハーモニー・ホールには波のようにうねる万雷の拍手の音がいつまでも鳴り響いている。
その夜の公演を聴きに来ていたクラシック雑誌の編集者は
『まるで夢でも見ているような素晴らしい公演だった。
彼が弾き振りをした演奏曲はベートーベンだったが、メンデルスゾーンの、そしてシェイクスピアの“夏の夜の夢”のような一夜であった』
と次の月に発売された雑誌に5ページにも渡ってカン・マエの弾き振りを称賛する記事をしたためた。
マエストロ・カン・ゴヌが長い指揮者人生の中で唯一「弾き振り」をしたその演奏は映像も音源も残されていないとされていたので、クラシック音楽を愛する者たちの間で伝説のように語り継がれることになった。
そして彼の死から3年後、彼の子供によってその時の映像があることが公表され、大いに話題になるのである。
Das Ende
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スクロールするとあとがき
カン・マエ、指揮者人生で最初で最後の「弾き振り」でございました。
普通だったら弾き振りなんて絶対にしそうにないんですが、こういう状況だったらやってくれそうかなー…と。
「弾き振り」に関して七海様に相談したところ、やっぱりカン・マエはベートーベンでしょうか、と助言くださったのでベートーベンにしました。
(七海様、有難うございましたv)
この曲はyoutubeでも弾き振りの動画がありますしね。
「ベートーベン ピアノ協奏曲第1番」干野宜大氏弾き振り
曲の最初、律儀に指揮台で指揮していたのは「己はやはり指揮者である」というカン・マエなりの意思表示です。
そしてやっぱりカン・マエの指揮シーンは私には無理!ということで誤魔化しました(汗)
しかも弾き振りなんて…更に無理。
指揮の表現はチップ様のように曲を分かってないと…私のようにクラシックに疎い人間には書けません。。。
ただ、珍しく汗だくのカン・マエを書けたのは嬉しいです(笑)
七海様曰く、バレンボイム氏が弾き振りをしてた姿は汗が飛び散り、あまり美しいものとは…とメールに書かれてまして。
バレンボイム氏には萌えませんが、これがカン・マエだったらきっと素敵ではなかろうか!と思った次第です。
ドラマ内でも指揮後のカン・マエは何気に汗だくでしたもんねv
でもあまりに淡白な演奏シーンなので、もしいい表現を思い浮かぶことが出来たら書き足すことがあるかもしれません。
次回の定期公演の曲目練習シーンで「ライトスタッフ」の話を入れたのは、SSにはすることはなくても、カン・マエに「イェーガーの勝利」を指揮して欲しいなぁ~と思ったのと…
「映画のタイトル通り、私たちは果たしてこの曲を演奏するに相応しい“正しい資質”であるのか――試されてるのです」
…というカン・マエが云いそうなセリフをSS内で云わせたかった為、です。
この曲、テレビのドキュメンタリーやバラエティなどで使われることが結構ありまして。
宇宙に関した内容になると必ず使われるほど。
聴けば多くの方が「あ、聴いたことがある」と思われると思います。
「題名のない音楽会」でも「●●音楽祭が開かれます」とか「△△さんのコンサートがあります」という告知の時に流れることがあります。
それだけ名曲だということですね。
確かに一度聴いただけで覚えてしまう旋律、何とも言えない高揚感が得られる曲調…聴いただけで男のロマンを感じられます。
この映画の作曲をしたビル・コンティはこの年のアカデミー作曲賞を受賞しました。
ビル・コンティはこの手の心が震えるような曲が得意なんでしょう、映画「ロッキー」のあの有名すぎるテーマ曲も作ってます。
映画はもう20年近く前に観たきりですが、山ほど映画を見た割にあまり内容を覚えてない私が(苦笑)覚えてるほど印象がある好きな映画です。
最初はジェフ・ゴールドブラムが出てる~v(ちょい役だけど)という理由で借りた映画でしたが、そんなんどうでもよくなるほど格好いい映画でした。
(というか宇宙モノのお話が好きなだけなんですけどね…「人類月に立つ」とか「トップをねらえ!」とか。)
そんなわけでこの公演の次の定期公演には「イェーガーの勝利」とホルストの「惑星」を演奏したことになってます。宇宙特集だったですね、きっと。
こちらも一応リンク貼っておきます。
「イェーガーの勝利」
カン・マエはドラマ内でも映画音楽である「ガブリエルのオーボエ」の指揮をしたので、こういった現代音楽を演奏することにはさほど抵抗がないのかな…と感じます。
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