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トゥ・ルミは夜中に目を覚ました。
眠りが深い彼女にしては珍しいことだ。
共に暮らし始めて間もない頃は隣りに彼が眠っているという慣れない状況の為か起きることが何度かあったが、それも数週間後にはすっかり馴染んで起きることが殆どなくなった。
暗闇の中で何度か瞬きをし、再び眠りなおそうと彼の温もりを求めて左に倒していた体を右に向けると、そこには恋人の…3か月ほど前に婚約者になった彼の姿が見当たらない。
再び瞬きをし、シーツをまさぐる。
もう長い時間彼の姿がそこになかったのかシーツはひやり、と冷え切っていた。
2月という季節であるから尚更かもしれない。
サイドテーブルに置いてある時計を見ると針は3時15分を指していた。
ベッドから起き上がるとライティングビューローに掛けてあったカーディガンを羽織り、リビングへと向かう。
足音を立てぬように静かに階段を下りていくと、広いリビングの中央にあるソファに彼は座っていた。
その白く嫋(たお)やかな腕の中で
カン・マエは肘掛けに肘を置き、頬杖をついてテレビを見ていた。
目が覚めたのか眠れなかったのかしてそうしているのだろう、少し離れた階段から見える彼は何処か寂しそうな切なそうな…いつものあの精気溢れる「マエストロ・カン・ゴヌ」とは違う哀感が漂う姿だ。
そんな婚約者の様子にルミはふ、と同棲し始めて1か月ほどした頃の出来事を思い出した。
二人は夕食を摂りながら会話を弾ませていた。
正確にはルミが一方的に喋り、カン・マエはそれに頷いたり相槌を打ち、時折からかうように茶々を入れたり…話の内容はルミの家族の話でルミが小さい頃に家族旅行をしたときの楽しかった思い出話だったと記憶している。
そして話が終わり、ルミが
「先生の家族はどんなでしたか?
やっぱり先生に似て偏屈?
あ、先生が似てるんですよね、あははは」
そう屈託なく云うと、目の前に座る恋人にピリッとした空気が一瞬走ったのが分かった。
「……私の家は普通だ。
話題になるようなことは何もない。
取るに足りんことだ」
「そう…なんですか?」
「それよりお前の家族の話をもっと聞かせろ。
この間してくれた、お前の姉さんが小さいころに鼻にピーナッツを入れて取れなくなって医者に駆け込んだ話は最高に面白かったぞ。
似たもの姉妹だな、ハハハハ」
なんとなく「これ以上は訊いてくれるな、踏み込むな」という意図を感じ取ったのもあり、ルミはそれ以上訊けなかった。
それから暫くしたころカン・マエは自分の父親は小さいころに蒸発してること、母親は小学生の頃に寝たきりになり、その数年後に亡くなったことを何かの話の拍子に自分からポツリと呟くようにルミに話した。
その時の彼の語り方はまるで他人事のようなそれであった。
さきほど「夜中に殆ど起きることはなくなった」とあったが、隣りに眠る恋人の異変で今まで数回、ルミは起きたことがある。
突然ガバッと飛び起きるようにカン・マエが起きてベッドが揺れたため起きたことが1回、カン・マエが短い呻き声のような、悲鳴のような声をあげたために起きたことが2回…。
ルミはビックリしたのと、その時の彼の雰囲気が只ならぬものだったので何となく声を掛けることが出来なかった。
そして先月、二人で母国に帰り、カン・マエの7歳年上の姉の家に婚約の挨拶をしに行ったときのことだ。
3人で客間で話をしていて、カン・マエが席を離れたとき。
「ねぇ…ルミさん、あの子、あんな性格だからイヤになることもあるかも知れないけれど…。
見捨てないであげてね」
弟とよく似た形の良い眉毛の端を下げて心配そうな顔をルミに向けていた。
ルミは大きく頭(かぶり)を振り、
「私が先生を見捨てるなんて…!
そんなこと、絶対にありえません」
「本当に?
……お願いね」
それまで快活な口調でカン・マエに毒づき、ルミには優しく明るい笑顔を絶やさなかった彼の姉が神妙な面持ちで、少しだけ目を潤ませながらルミの顔を真っ直ぐに見つめていた。
その3日後にルミの実家へ行った時、ルミは父親とカン・マエが庭で話をしているのを家の陰から聞いてしまった。
「――私は恵まれた家庭とは云いがたい、幸せとはかけ離れた環境で育ちました。
何が幸せで、どうすれば幸せになれるのか…多分普通の人が普通に感じていることが、私は出来てません。
ですから…正直に云いますと、どうすれば彼女を幸せに出来るのか…私には分からないのです」
今でも彼が云ったことを思い出すとルミの胸は苦しくなり鼻の奥がツンとしてくる。
そして自分はなんて恵まれた環境で育ったのだろう、幸せなのだろう…その境遇が彼女にとっては当たり前だったので、自分が「幸せ」であることに今まで気づかずにいた。
改めて惜しみない愛情を注いでくれた両親に、そしてそんな気持ちを覚えさせてくれたカン・マエに心から感謝したルミである。
ルミは静かにカン・マエに近づいたが、目の端に映ったのか気付いたようだ。
顔を上げるといつものあの涼しげな表情になっていた。
「こんな時間に起きたのか、珍しいな」
「…眠れないんですか?」
「ああ、どうにも目が冴えてしまった。
だが退屈な映画を観てたら、なんとなく眠くなってきたな」
そう云ってテレビに対してふん、と鼻を鳴らす。
そんな彼の姿は何処か虚勢を張っているようにルミには見えた。
(先生は、私なんかじゃ分からない心の闇を抱えてる…)
更に歩み寄ってカン・マエの横に立つと、そっと腕を伸ばして彼の頭を胸に抱え込んだ。
「なんだ?」
「………」
彼の黒くて柔らかな髪に頬ずりをすると、長年愛用しているという香水が体に染みついているのかベルガモットの優しい香りがする。
例え――
先生を幸せにするためには世界を敵に回すことになるのだとしても、それでも私はこの人を幸せにしたい…
そう強く思うと抱く手に自然と力がこもった。
「…先生、身体が冷えてきてますよ。
先月高熱出したばかりだし、そろそろ寝室に戻りましょう?」
「それじゃあ、身体が温まることでも今からするか?」
その言葉にルミは腕を解いてカン・マエから上半身を離すと相手の顔を見る。
「もうっ!
さっき………したじゃない…」
「私は“それ”だとは一言も云っていないが?」
「……意地悪」
と可愛く色付く唇を尖らせる。
「冗談だ、真に受けるな」
カン・マエはルミの腰を掴んで身体を引き寄せると、今度は自分からルミの胸に顔を埋めてゆっくと目を閉じる。
シルクのパジャマ越しのその暖かで柔らかな感触は、一度は己の人生を音楽だけに捧げようとしていた彼の閉じた心に大きな灯が燈るような感覚だ。
今まで付き合ってきた女性にも…こうして抱きしめられることは確かにあったと思うが、こんな気持ちにはなることはなかった――
何処かお互いの傷を舐めあっているような感覚しか感じることが出来なかった。
何故、私はトゥ・ルミに――15歳も年若い彼女なのに、こんな風に暖かで大きな何かに包まれているような気持ちになるのだろうか…
ルミの腰を強く抱きしめて更に顔を押し付ける。
「…先生?」
「………」
「そろそろ、寝ましょうよ」
「―もう暫く…このままで――」
「え?なんです?」
ごく小さな声で呟いたので、ルミの左耳には届かなかったらしい。
「……私の身体が温まるまで、もう暫くこうしていろ…」
今度はいつものように声を張って云うとルミは一瞬首を傾げたが、再び華奢な腕で愛しい男(ひと)の頭を包み込むように抱いた。
Das Ende
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スクロールするとあとがき
我が家のルミはかなりおぼこい、といいましょうか(苦笑)
そしてルミにばかり災難が起こる為、なかなか「カン・マエを大きく包むルミ」を書くことがなかったのですが…これは他のベバ二次SSのカン・マエ×ルミもそうだと思いますが、当SSでも人一倍傷つきやすくて繊細なカン・マエを護ってるのはルミだったりします。
普段はカン・マエを笑わそうと明るく馬鹿なことばかり云ってる…どちらかというとドラマ前半のルミのイメージなのですが、いざとなるとドラマ後半の「淑やかな女性」になるルミです。
愛されて育った人間は強いです。(そのため、我が家のルミは両親に愛情いっぱいかけられて育ったことになってます)
話の時期は「M氏、再び」の後なので、「ルミの胸で甘える」のがちょっとしたマイブームになったカン・マエなのかも知れません。
そりゃあね、例え大きくない胸でもあんな柔らかで心地よい感触を一度味わったら何度もしたくなると思いますよ、さすがのマエストロでも(笑)
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