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出生時体重は2450g。
予定日より3週間も早く生まれてきたが、元気な女の子である。
歓喜の歌 4
■
出産から2時間後、ルミは個室に移っており、彼女が横たわるベッドの傍にはコット(産院で赤ん坊を寝かせておくベッド)が置かれている。
赤ん坊は先ほどから起きている。
クリッとした大きな目をキョロキョロと動かして、初めて見る世界を観察しているようだ。
コットの横には先ほどからハ・イドゥンが張り付いており、
「可愛いなぁ…」
と母性本能が刺激されたのか赤ん坊を見ながらずっと同じことを云っている。
部屋の中央に置かれたソファにはアレッサンドロ・カニーニョとカン・マエが座っている。
アレッサンドロは向かい合わせに座るカン・マエに
「マエストロ、どうですか?
父親になった感想は……」
と清涼飲料を飲みながら訊ねると、カン・マエは無言のまま目を瞬かせた。
「………」
「マエストロ?」
「あー……そうだな…。
――正直、まだ実感が…イマイチだな…」
「えっ、まだ実感ないんですか?」
「男の人は遅いって云うわよね。
これから徐々に親になった実感が湧いてくると思いますよ」
とルミ。
「へぇ、そういうもんかな…。
俺は多分、お腹に居る時に父親としての実感が湧くと思うよ、イドゥン」
アレッサンドロはイドゥンに向かって云うが、イドゥンは何も応えず無視をした。
暫くするとジス・カルクブレンナーがルミの部屋にやってきた。
どうやら今まで彼女の元同僚で、ルミの出産を担当した産科医師と話をしていたようだ。
唇の両端を大きく上げ、切れのいい足音を立ててベッドへと近づいて行くとルミが体を起こそうとしたので「そのまま寝てて」とジスは云った。
「体調はどう?辛くない?」
「はい、大丈夫です」
「5時間以上いきんでたから、多分明日から暫く凄い筋肉痛になると思うわよ。
覚悟してね?」
「筋肉痛…ですか。
はい、覚悟しておきます」
二人は満面の笑みで互いを見合う。
「ジス先生、お休みのところわざわざすみませんでした」
「いいのよ、主治医として当然のことをしたまでだから気にしないで」
ドイツでは妊娠の健診を受ける病院と産む病院は別である。
ジスの個人病院では産むことは出来ないので、ルミはジスが以前勤めていたという総合病院を薦められたこともあり、その病院に出産の予約をしていた。
その為、予定より少し早い出産であったルミを心配して、丁度日曜で自分の病院は休診だったこともあったので来たのである。
分娩室から聞こえてきていた韓国語はジスの声だった。
「で、子供はもう抱っこしたの?」
ジスは後ろのソファに座るカン・マエを振り返って訊く。
「…いや…」
「じゃ、抱っこしてあげたら?」
「………」
「ホラ、こうやって…」
とジスはコットから新生児を手慣れた手つきで抱き上げる。
「頭はグラグラだからこうして腕で支えてあげて、両腕で包み込むように抱っこするのよ。
ほら、やってみて?」
そうは云われてもカン・マエは恐れ慄いているような表情で座りながら僅かに後ずさりし、明らかに体全体で拒否している態である。
するとニコやかな表情をしていたジスの顔が一瞬にして厳しいものになり…
「――何、躊躇してんのよ!
あんた父親でしょうが!!
早く抱っこしてあげなさい!!」
赤ん坊が吃驚しないように大声にはしなかったが、かなりきつい口調で捲し立てるとカン・マエはムッとした顔になり、「女性に叱責される」という滅多に見られない彼のそんな姿にアレッサンドロとイドゥンは声を殺して笑い、ルミに至っては声を上げて笑った。
30分後ジスは帰宅し、1時間後にはアレッサンドロとイドゥンも「近くで夕食を食べてから帰る」と云って帰って行った。
「こう……新生児を抱くというのは、肩が凝るな…」
カン・マエはベッド横の椅子に座ると大きな溜息を吐いた。
「慣れればなんてことなくなりますよ、きっと」
コットに寝かされて眠る赤ん坊を見ながらルミは微笑むが、すぐに何かを思い出したのか驚いたような顔をした。
「あ…!
明後日、先生の誕生日…。
今年こそちゃんと祝ってあげられると思ってたのに…」
しゅんとした顔をするルミにカン・マエはゆっくりと頭(かぶり)を振ると
「…いや…」
とシーツの上に置かれた彼女の左手を自身の右手で握る。
そしてルミの大きな瞳をじっと見つめ…
「俺にとってこれ以上ないくらいの、最高の誕生日プレゼントだ」
「……」
夫のその言葉にルミの双眼は一気に潤み、
「――先生に…そんなこと云ってもらえるなんて…」
両頬に涙の筋が出来る。
「なんか…さっきまであんな痛い思い、もう2度としたくないって思ってたけど……。
そんなこと、もうどうでも良くなっちゃった…」
微笑みながら涙を流すルミの姿に戸惑いながらも愛しく思い、カン・マエは握っている彼女の手を更に強く握った。
■
…Epilogue #1…
マエストロ・カン・ゴヌとトゥ・ルミの間に子供が生まれて1か月ほどのち――
現在、ルミと赤ん坊は韓国から来てくれているルミの母親と客室で寝ている。
今となっては安眠するのに必要不可欠となった彼女が隣りに居ない所為か、はたまた赤ん坊のことが気になる所為か、ここのところ寝不足気味のカン・マエである。
休日のその日も気が付くと仕事部屋の椅子に座って寝てしまっていた。
体を解すために伸びをし、パソコンの電源を落としてリビングへと出ていくとルミの母親の姿はなく、ルミが一人掛けのソファに座って赤ん坊に授乳をしていた。
ルミは振り返ってカン・マエに微笑んだ。
「授乳が終わったらエスプレッソ淹れますね」
「ああ…いや、俺がやるからいい。
ところでお義母さんは?」
「今は客室で寝てるわ。
昨夜、この子が起きる度に私と一緒に起きてたから寝不足みたい。
やっぱり別の部屋で寝た方がいいのかな…」
「お義母さんがそうしたいんだろ?
あと1週間したら帰らなきゃならないんだ。
出来るだけ一緒に居たいんじゃないのか?
孫とも、お前とも」
「そうなのかな…。
そうよね、これからはなかなかこの子に会えないだろうから一緒に居たいわよね…。
……この子がもう少し大きくなったら、頻繁に韓国に帰ることにしましょうね、先生」
カン・マエは黙って頷く。
「ね、先生、見て見て」
ルミに手招きされたカン・マエはソファの背もたれに手を付いて後ろから赤ん坊を覗き込むように見る。
「ほら…この子、おっぱい飲みながら私の顔を横目で見てるの。
反対側で飲ませても見てくるのよ。
ママの顔を確認しながら飲んでるのかな?」
ルミは赤ん坊の頬を指でツンツンと突いてやると赤ん坊は目を瞑り、暫くするとウトウトとし始めたようだ。
「…可愛いですね…。
本当に天使みたい。
私たちの天使ね、この子は…」
そう云うルミの姿が堪らなく愛しく、カン・マエは思わず彼女のこめかみに優しくキスをした。
■
…Epilogue #2…
カン・マエは仕事が終わり、タクシーで帰路に就いた。
玄関のドアを開錠して中に入ると、ルミは3人掛けのソファに横たわって気持ちよさそうに寝ていた。
子供はソファの横に置いてある電動のベビーラックの中でゆらゆらと揺られており、「あー、あーうあー」と唸るように声を出している。
生まれて4か月ほど経ち、最近ではこのようによく「喋る」ようになったようだ。
彼は黒のカシミアのコートを脱ぎ、数歩歩いて一人掛けのソファの背もたれにコートを置く。
そして歩きながらスーツの上着のボタンをはずしていると子供が自分の姿を目で追っていることに気が付いた。
カン・マエはラックに近づき、ネクタイを緩めながら少し屈んで子供の顔を覗き込むと…
カン・ミウと名付けられたその赤ん坊は、見慣れた顔が近寄ってきたことが嬉しかったのか大きな目を細め、まだ歯のない口を開けて満面の笑みになった。
そして嬉しそうに手と足をバタバタと動かした。
娘のあまりにも可愛らしい笑顔と仕草を見たカン・マエの胸には今まで経験したことがない感情が大きく大きく広がるのが分かり、何故だかじわりと目頭が熱くなる。
彼はラックのベルトを外して子供を抱き上げた。
今では首もしっかり座るようになり、それまで壊れ物を扱うかのように恐る恐る抱っこしていたカン・マエも躊躇なく抱き上げれるようになった。
縦向きに抱っこしてやると、子供は父親の肩に顎を乗せながら「あっ!あうあうあー」と嬉しそうに再び声を上げる。
するとその声でルミは目を覚ました。
「あ…やだ!
先生、いつの間に…お帰りなさい!」
素早く起き上がり、
「私が抱っこするわ。
先生、着替えてきて?」
子供を受け取ろうとカン・マエに両手を伸ばす。
「いや、ミウの面倒は俺が見てるからお前は夕食の準備をしてくれ」
「でも…スーツが皺になっちゃう」
「気にするな」
そう云って彼は器用に左腕と肩で子供を支えて右手に鞄を持つと、リビングの横にある仕事部屋に入っていった。
30分後、ダイニングテーブルで食事をする二人の横にはリビンクから移動させたベビーラックに揺られながら小さなお腹を上下させて娘が気持ちよさそうに眠っており、そのラックの横ではトーベンがお座りをして子供の様子を伺っている。
二人は娘が起きないようになるべく小さな声で会話し、抑えるように笑い合った。
その日、彼の心の中に広がった生まれて初めて味わう何ともくすぐったいような温かな感情を、カン・マエは生涯忘れることはないのである――。
Das Ende
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