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二人の子供であるカン・ミウが生まれて早や6か月半。
生後5か月経った頃には時折夜泣きはするものの、夜一度も起きることなくぐっすりと眠ってくれるようになった非常に手のかからない赤ん坊である。
月齢14.77
夜8時半、カン・マエはリビングの一人掛けのソファに座り、照明を落としてバング&オルフセンのスピーカーから流れ始めた音楽を聴いていた。
曲は歌劇「トゥーランドット」からジャコモ・プッチーニ作曲「誰も寝てはならぬ」――
すると子供を寝かしつけに行っていた妻のトゥ・ルミが二階から降りてきた。
「もう寝たのか?」
「うん、ホントに手のかからない子ね、あの子。
育児って大変なのよって姉から聴いてたからなんだか拍子抜け。
確かにお姉ちゃんが上の子を産んだとき、夜1時間ごとに起きるからノイローゼになりそう…って云ってたっけ」
リビングはかなり暗かったが、彼女の夫は時々こうして音楽の世界に没頭することがあるので特に何も思うことなく、彼女の定位置である三人掛けソファの右側に座った。
「あ、これって…『誰も寝てはならぬ』…ね?
トゥーランドット姫の愛を得る為の、カラフ王子の決意の歌なんですよね。
先生がオペラの歌をかけるなんて久しぶりね」
カン・マエは返事をせずにソファを立ち上がると、窓際へとゆっくりと歩いていく。
いつもと些か様子が違う夫を不思議に思い、ルミはその姿を目で追っていた。
窓の縁に手を着いて暫くの間窓外を眺めていたが、やがてルミの方へ顔を向けた。
「ルミ…」
「はい」
「………私は―――」
そこまで云うと彼は口を固く噤み、ルミと合わせていた視線を逸らして黙ってしまった。
「……どうしたんです?」
何かを言いよどんでいる彼を少しの間そのまま見つめていたが、なかなか云い出そうとしないのでルミが訊くとカン・マエは窓辺の壁に背中を預けて腕組みをし、目を合わせぬまま語り始めた。
「―私が小学生の頃、母親が寝たきりになったことは以前話したな?」
「…はい」
「寝たきりになった母は褥瘡が…いつも同じ恰好で寝ていると布団と接触している肌が床ずれになって壊死してしまうので、そうならないように定期的に寝返りをさせなければならなかった。
それ以外にも…喉に詰まった痰を取り除かないと、呼吸が出来ずに死に至る。
だから3分に一度、痰を取らなければならなかった。
学校に行ってる間は近所の人やボランティアの人がやってくれていたが、学校から帰ってくると私や姉がそれをやらなければならなかった。
家で勉強をしながら、家事をしながら母の面倒を見ていた。
外で友人と遊ぶ…などということは私には許されなかった。
まぁ、もっとも私に友人なんていなかったのだが…」
カン・マエは自嘲するようにフッと鼻を鳴らす。
「ある日、何故自分ばかりがこんな境遇なのだ、世の中は何故こんなに不公平なのだ、何故母はこんな世界に私を産み落としたのだ、何故あんな父親との間に子供をもうけたのだ?
せめて姉だけに留めておいてくれればよかったではないか、こんな苦しい思いをさせるために私を生んだのか?
…と母に対する怒りや憎しみが心に湧いてきた。
すると母と自分の存在が疎ましく思え、母と一緒に命を絶つことを考えた。
そうすれば生きる苦しみから解放される、もう、解放されたい…と。
――母をこの世から消し去ることは至極簡単なことだ…喉に詰まった痰を、取らなければいい」
カン・マエは床に落としていた視線をルミに向け
「その痰を取らずに……」
一度、深く息を吸い…
「――見殺しに……しようとしたことが、ある………」
そして肺に溜まっていた息をゆっくりと吐くと、再び視線を逸らした。
今度は身体ごと、窓の方へと向けた。
「………」
「見殺し…なんて聞こえのいいものじゃないな。
殺そうとしたのだ、私は、母を…」
スピーカーからはテノール歌手の荘厳なアリアの最後のビブラートが長く響き渡り、やがてすべての音が止まった。
ルミは重々しい告白をするカン・マエの横顔を黙ったまま見つめている。
月明かりで浮かび上がる彼の端正な輪郭はいつもの凛としたものとは違い……哀しみと、憂い、そして何かに畏れているようにも見えた。
「…ミウを出産した時の、陣痛で苦しむお前の姿を見て……私は母親という存在の偉大さを知った。
あんなに凄まじい思いをして私を生んでくれたであろう母を……俺は自分が楽になりたいが為に殺そうとしたんだ――」
そう云い終わるとリビングには沈黙が訪れた。
カン・マエはルミの顔を見ることが出来ず、微動だにせず、窓の外を見ている。
俺は何をしようとしている…
ルミに贖罪を乞うて……一体何になると云うのだ………
それを告白したとて、私が犯そうとした罪が消えるわけではないのに――
カン・マエが恐る恐るルミの方に顔を向けると案の定、彼女の半月を描いた大きな瞳は涙で潤んでいた。
涙脆い彼女のことだ、こうなることが分かっていたから彼は今まで話さなかった。
彼女にはいつも笑っていてほしい、涙は極力見たくない――。
「泣くな、ルミ」
「先生は……そんな悲しい思いを、今までずっと独りで抱えてきたの…?」
「………」
「30年以上も、ずっと?
――だとしたら、先生は馬鹿です…」
「……」
「今まで、どうして私に云ってくれなかったの…?
結婚して2年経つし、恋人になってからはもう4年も経つのに…っ」
「――辛いのは、俺独りで充分だと…」
「――!」
ルミはすかさずカン・マエの正面へと歩み寄ると、右手でカン・マエの左頬をペチリ、と軽くだが叩いた。
「…っ先生が云ったんじゃない、『喜びも悲しみも二人一緒』って…!!」
その声と右手は小刻みに震えている。
「先生が云ったことなのに忘れたの?!
自分こそニワトリじゃないッ!!
本当に大馬鹿よ…っ!」
彼女の喉からはしゃくり上がる嗚咽が発せられ、目を瞑ると大粒の涙が次々と零れ落ちる。
「私が今、どうして涙を流してるのか…分かりますか?
悲しくて泣いてるんじゃないんです。
自分が情けなくて泣いてるんです…。
先生の辛い気持ちを、4年も伝えてもらえなかった頼りない自分が情けなくて……」
「………」
先ほど叩かれた頬が酷く痛む気がした。
痛みが残るほど強く叩かれていない筈なのに――あの、雨の日に別れた恋人に叩かれた時の痛みなぞ比にならないくらい、ずっと痛い――。
「…幸せな家庭で育った私には、先生が抱える心の闇を、本当に理解することは一生できないと思います…。
でも、一緒に悲しんだり、先生の辛い気持ちを共有することくらい…それくらいはさせてください。
私は先生の妻になる覚悟をした日から、何があっても先生の全てを受け入れると決めたんです…」
「……」
「先生を、心から愛してるから――」
そう云うと先ほど叩いた右手で彼の左頬に優しく触れる。
「愛してます…」
もう片方の手がカン・マエのうなじに添えられると、ルミはゆっくりとカン・マエに口づけをした。
最初は啄むように…何度か唇が離れ、その度にルミの濃いヘイゼルの瞳はカン・マエの戸惑うような黒い瞳を捉えた。
それから彼の薄い唇を柔らかな舌で割り入れ、白い歯と歯茎を優しくなぞった後、舌を絡め――それは徐々に息もできないほど激しいものになる。
恐らくルミから初めてされる、貪るような接吻―――
ルミが唇を離して彼の顔を見ると、相手の瞳がいつもより微かに潤んでいるような気がした。
カン・マエのこんな瞳を見るのは彼女は二度目だ。
一度目は出会ってすぐの頃、彼の愛犬が睡眠剤を多量に飲み込んでしまい、意識不明に陥った時…。
夫はプライドが非常に高い男であることはルミは重々に承知している。
あの時も自分と、今となっては夫の弟子になった男性を目の前にして、必死に涙を堪えていた気がする。
あの頃より時を重ね、夫婦となった今でも、恐らく自分の前で泣くことはしないであろう。
それならば………
「…私が先生の分まで泣きます…」
そしてカン・マエの背中に腕を回して彼の肩に顔を埋め、咽び泣いた。
ルミ…
トゥ・ルミ―――
お前は何故、こんな人間として不出来な俺を赦(ゆる)し、愛してくれるのだ。
何故、こんな腑甲斐ない俺の全てを受け止めてくれるのだ。
何故、こんな俺を見つけ、欲してくれたのだ……
お前と出会わなければ、俺は自分の罪に気付くこともなく苦しむこともなかった。
――だがお前と出逢わなければ、心が満たされることはなかった――
カン・マエはルミの細い肩と腰に腕を回した。
「トゥ・ルミ…もういい、泣くな……」
彼女はふるふると小さく首を振る。
「――先生の心の痛みは私の痛みだから…。
だから、私がいっぱい泣くの……」
ルミを抱き締める力がより一層強くなるとカン・マエは彼女の柔らかな髪に頬ずりをし、俯いて目を閉じた。
すると彼女が着るブルーグレー色のドルマンスリーブニットの右肩にふた粒の滴が落ちて染みが出来たのだが、ルミがそれに気付くことはなかった。
窓の外では満月が庭の草木を煌々と照らしている。
季節は春――窓ガラス越しに見える庭の緑が一斉に芽吹きはじめている。
五月になったらルミが育児の合間に花を植えると云っているので、さぞかし色鮮やかな庭になるのだろう。
二人は月明かりに包まれながらいつまでも、いつまでもきつく抱き合っていた。
Das Ende
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