―――十数年前、ソクランに指揮者として招聘された頃はまさか自分が結婚をし、その上子供を授かるなんてことは微塵も思いもしていなかったことだ。
変わり者であると自覚している自分に、そんな平凡で平穏な人生が送れるとは露ほども思っていなかったからだ。
それ以前にこんなどうしようもなく偏屈な男と人生を共にしてくれる存在が、世界広しといえどもこの世の中に居ると思っていなかった。
珍しく感慨深い気持ちになったので、再び庭に居る家族の姿に目を向けていると
「先生、今日の夕方、出掛けません?」
と声を掛けられた方に顔を向けると、少し開いた引き戸から「どうしようもなく偏屈な男と人生と共にしてくれている」妻のトゥ・ルミが顔を出していた。
「何処に?」
「夕飯を食べに行かない?
隣り町に評判のイタリアン・レストランが出来たんですって。
美味しいからってお母さんが薦めてくれたの」
「ああ、それじゃあミウにそう伝えて……」
「ううん、あの子たちは連れて行かないわ」
「ん?」
「お母さんが子供たちは見てるから、たまには二人で外食してきなさいって云ってくれてるの。
ヘソンのことはミウに任せても大丈夫だし、折角だから行きましょうよ」
ルミが母親の車を借りて行くというので、カン・マエが
「タクシーで行けばいい。その方が二人とも呑めるだろう」
と提案し、それから
「行きたいところがあるから少し早めに出掛けよう」
とも云ったので16時前にタクシーを呼んで、二人はルミの実家を出たのだった。
タクシーが走り出すとカン・マエはすぐに目を瞑り、一昨日の出来事を思い出していた。
一昨日はソクランで「マエストロ・カン・ゴヌ凱旋パーティ」と称して小規模の宴が催された。
凱旋と云ってもソクラン市に仕事をしに来たわけではなく、韓国交響楽団で振る為に来たのだが、それを知ったペ・ヨンギと妻のキム・ジュヒが「どうにかしてカン・マエを宴の席に座らすことが出来ないか」とルミに連絡をしてきたのだ。
丁度10月下旬に長女ミウが通うフランスの小学校がトゥッサンという2週間の休みになる為、先に韓国入りするカン・マエより少し遅れてルミが子供二人を連れて帰省することになっていたので、カン・マエのスケジュールと相談して企画したようだ。
会場はソクラン市中心街にあるホテルの小さなホールで行うことになった。
最初は以前宴会をしたことがある中華料理店でやろうかと思っていたようだが、参加人数が40人近くになったため店側から断られたそうだ。
若手指揮者として奮闘中で1か月ほど前からアメリカに行っている弟子のカン・ゴヌと、最近フルーティストとして躍進し始めたハ・イドゥンは参加できなかったものの、プロジェクト・オケや市響…現在は「ソクラン・シティ・シンフォニエッタ」という名前に変わったのだが…の当時のメンバーたちが多く参加していた。
宴会会場に到着すると、ルミはジュヒとジュヨンの姿を見つけたので「久しぶりー!」と云いながら二人の元へと子供たちを伴って駆け寄って行く。
ジュヒもヨンギとの間に生まれた二人の男の子を連れており、ホテルに頼んで会場の隅に子供が遊べるスペースを設けてもらっていたのでそこへ連れて行った。
何より驚いたのは、元ソクラン市長のカン・チュンベも居たことだ。
チュンベはカン・マエの姿を見つけるなり「先生~!」とあのダミ声を発しながら近寄ってくると、
「いやー大変ご無沙汰してます!
先生のご活躍はここ、ソクランからずーっと拝見しておりましたよ!
実を云うとですね、何年か前にミュンヘンに行ってミュンヘン・フィルでの先生の指揮を直に見せて頂こうかと伺ったら…なんとその日の公演は先生の指揮ではなかったんですよ!
公演後に受付の人に片言の英語で訊いたら、なんでも先生はフランスだかどこかに出かけたって云うじゃないですか!
全く…あとでチケットを手配してくれたキム君に文句を云ってしまいましたよ」
とのべつ幕なしに喋ったので、カン・マエは彼の勢いを止めようと何か皮肉の一言でも…と口を開こうとしたところ
「ああ、私は今はもう、市長じゃないんですよ。
トゥ・ルミ君から聞いてますよね?
あのチェ・ソッキュンが失脚した後、また私が返り咲きまして。
あれから2期、市長をやらせてもらったんですが、2期目の任期が終了する頃に元々私が経営していた会社の状態が少し傾きましてね。
是非戻ってきて欲しい、と会社を任せていた弟に云われたので戻ったんですよ。
やはり会社は人に任せるものじゃありませんな。
私が戻った途端、経営状態は元通りです!わはははは!」
両の眉尻を下げながら些か辟易した様子で「それはよかった」とカン・マエが云うと、カン・チュンベは
「おお、クォン・ジュンジン君!久しぶりだね!
先生、ちょっと失礼します、またあとでゆっくりと…」
とオケのホルン奏者の姿を見つけたらしく、そちらへと大股で歩み寄って行った。
するとどうやらカン・チュンベの後ろに居て見えなかったキム係長…現在はソクラン・シティ・シンフォニエッタ広報部部長になっているのだが…が、おずおずと寄ってきて
「あの…すみません。
先日たまたま街で元市長にお会いしまして…。
その時に今回の宴会のお話をしてしまいましたら、『私も参加する!』と云うものですから…ハイ」
と上目遣いの申し訳なさそうな顔をしながら伝えてきた。
久々の宴は、以前と変わらず大騒ぎであった。
カン・マエの周りには訊いてもいないのに近況報告をする者やカン・マエの活躍を賞賛する者が入れ替わり立ち代わり訪れた。
最初は厳かに執り行おうとしていたようだが、酒が進むにつれて無礼講じみた言動が目立ち始め…
開始から2時間過ぎた頃には楽器を演奏する者、それに合わせて踊る者、歌う者、談笑する者、泣いてる者――主催者であるペ・ヨンギとクォン・ジュンジンも正体がなくなるほど酔っていたので、収拾がつかないような状態になっていた。
比較的酒に強く、自制心があるパク・ヒョックォンとキム部長が二人に代わって場を治めようと試みたが無駄なことであったようで、最終的には二人とも酔いつぶれていた。
宴会は前日の公演の所為もあり確かに疲れたが、以前のような居心地の悪さはなかった。
今までも何回かこういった宴会の席を設けられていたので、流石のカン・マエも慣れたのかもしれない。
ソクランに居た頃、サプライズで誕生日を祝ってもらった時は何とも云えない気恥ずかしいような感覚を覚えたものだが……。
「先生、行きたいところって何処?」
タクシーの後部座席で右隣に座るルミが話しかけてきたので、カン・マエはゆっくりと目を開けた。
「………」
「ね、先生、聞いてる?」
「…行けばわかる。
もう着く頃だ」
程なくするとタクシーは目的の場所に到着し、カン・マエは降りるときに「帰ってくるまで少々時間がかかるかも知れないが、ここで待っていてくれ」と運転手に伝えた。
ルミはタクシーを降りると目をぱちくりとさせながら
「ここって……」
と云ったが、カン・マエは何も云わずに歩き出した。
「へへへ、先生ってばここに来たかったの?」
ルミは嬉しそうな顔をしながらカン・マエの後ろに続いた。
秋めいてきたとはいえ、そこはまだ多くの緑が景色を覆い尽くし、遠くまで続く草原の上には何基もの真っ白な風力発電機が優雅に回っている。
更に歩み進んでいくと、ルミの目に見覚えのある風景が見えてきた。
その小高い丘の頂きには大きな木が一本、今でもしっかりと己の存在を誇示していた。
二人が訪れた場所とは、「日の出の丘」――である。
丘へと続く緩い坂道をカン・マエは昔と変わらない足取りで颯爽と歩いて行くので、ルミは「先生、もうちょっとゆっくり歩いて」と云ったが、カン・マエは後ろをちらりと振り返っただけでそのままの歩調で進んでいく。
「もぉ…!」
相手のその態度にルミは不服そうなアヒル口をし、歩みを止めて乱れた息を整えた後、歩道を外れて草むらを駆け出してカン・マエを追い抜いた。
そして相手の顔を伺おうと走りながら振り向いたところ、「ぎゃ!」ともうすぐ40になろうとしてる女性とは思えない声を出して勢いよく転んだ。
「イタタタタ…」
カン・マエは慌てる様子もなく、転んだ妻の傍へと近寄って行く。
「…お前は…相変わらずおっちょこちょいだな。
いつになったらそのドジっぷりが治るんだ?」
「違うわよ!
ほら、見てよ、これ!
誰かが悪戯で草を結んだのよ。
これに引っ掛かって転んだの!」
「何にしろそんなものに引っ掛かるお前が悪い。
そもそも道を外れて草っぱらを歩いたお前が悪い」
そう云いながらもカン・マエは手を差し出したので、ルミはその手を掴んで力任せに引っ張るとカン・マエは「うっ?!」と目を剥きながら、ルミの身体に覆いかぶさるように倒れ込んだ。
「…ったく、何をする…」
「“そんなものに引っ掛かる”先生が悪いんですよーだ」
ルミは「してやったり」というような顔をして云った後、柔らかな笑みを浮かべた。
出会った頃と変わらない少女のような妻の姿にカン・マエの眉毛は呆れたように歪んでいたが、口元はいつの間にか綻んでいた。
それから周りをぐるりと見渡して再びルミの顔を数秒見た後、彼女の頬に掌を添え――
カン・マエはルミの唇に軽く口づけをした。
顔を離すとルミは少し驚いたような、だが嬉しそうな顔をしている。
「………こういう公共の場では、そういうことはしないんじゃなかったの?」
「今は俺たち二人しかいない。
だから二人だけの空間だ」
カン・マエは立ち上がると「ほら、立て」とルミに右手を差し出した。
彼女は夫の手を取って立ち上がりお尻を払うと、そのまま手を繋いで二人は丘の頂きへと登った。
「はぁ……改めて見ると、こんな綺麗なところだったのね」
「前回来た時に気付かなかったのか?」
「えー…だって、ほら、前の時はじっくりと景色を見るような状況じゃなかったって云うか…。
あの時の私は、もう先生のことしか見えてなかったんだもん」
「………」
「あの時はどんなに美しいって云われる絶景も、先生の姿には敵わなかったんじゃないかな。
だってまさか先生が私を迎えに来てくれてるなんて…夢にも思ってなかったんだもの。
もう二度と逢わない、逢えないと思ってたから。
それだけ嬉しかったのよ」
そう云い終わると白い歯をこぼした笑みを向けた。
昔と変わらず自分の気持ちを素直にぶつける妻の姿に、カン・マエは切ないような気持ちになり何も答えられないが、ルミはさして気にしていないようだ。
「…あ!
ね、先生、ここに立って!」
突然ルミはカン・マエの体をグイッと押し、
「立ったまま動かないでね。
――いい?動いちゃ駄目よ!」
踵を返したルミは坂を下って行き、30メートルほど行ったところで振り返るとそのまま勢いよく走りだした。
そしてカン・マエのところまで来ると彼の胸の中に思い切り飛び込んできた。
「――まったく…何をやってるんだ、お前は…」
あの時の、あの場面の再現である。
ただ昔日と違うのは、彼の両手はルミの背中に自然と添えられたことであった。
「えへへへー」
自分の顔を見上げて笑うルミを見て、思わず迷惑そうな顔をすると彼女の体をやんわりと自身から離す。
「もうっ…つれないんだから…!
――でも先生と一緒に、またここに来れてよかった」
ルミがそう云うとカン・マエの脳裏にふ、と何故か音楽高校の同級生の男の顔が浮かび、何年も前に彼に云われた言葉が過ぎった。
「言葉で云ってやれ――か……」
「え?何か云った?」
「何でもない」
「ふぅーん。
…あ、そうだ。
ねぇ、先生。
先生の今の夢って何?」
「なんだ、また突然…。
夢だと?」
「前、ゴヌに訊かれた時に云ってた『ヴェルディの建てた憩いの家に入る』っていう夢はもう実現させる必要はないでしょ?」
「…何故だ?」
「だって先生の老後は私が見るし、子供たちも居るし…」
「お前や子供が俺の老後を見てくれるなんて保証は何処にもないだろう?」
「見るわよ!
ヨボヨボになった先生のお世話を私がするの!
時々先生に厭味を云いながら!
でも先生は私の厭味なんてものともせずに、もっとすごい厭味を返してくるような偏屈爺さんになってるんだわ、きっと」
「そうか。
それじゃあその“偏屈じじい”になることを俺の今後の夢にすることにする」
「もぉっ…真面目に答えてよ~」
「俺は大いに真面目に答えているのだが?」
片方の頬を挙げて皮肉めいた笑みを浮かべた後、カン・マエは山向うに落ちようとしている太陽を目を細めて見たので、ルミもそちらに目を向けた。
そんな時間だからなのか地元の人も観光客も誰の姿もなく、この美しい景色は本当に二人だけのものになっている感覚だ。
丘の上では二人を包み込むように優しい風が吹いている。
「なんだか日差しや空気が冬っぽくなってきたわね。
そういえば…前に来た時もこんな時期だったかしら。
今日は温かかったけど、日が暮れるとちょっと肌寒いわ」
「―――トゥ・ルミ君」
そんな風に呼ばれたのは本当に久方ぶりだったのでルミは些か目を見開いて夫の顔を見上げると、向こうは西の空を眺めながら
「君に伝えたいことがある」
そう云うと眩しそうに夕陽を見つめていた漆黒の瞳を、「またいつものお小言かしら…」と少々神妙な顔になった妻に向けた。
カン・マエは数秒、ルミの顔を見つめた後、形はいいが意志の強そうな唇をゆっくりと開く。
「――有難う。
ルミ、君と一緒になれて―――私は……」
その時、カン・マエの後ろから颯(はやて)が吹き……
「……幸せだ」
小さく唸るような声だったか、吹いてきた風に乗ってルミの左耳にしっかりと届いてきた。
夫の突然の“告白”にルミの大きな目は何度も瞬きをすると、みるみるうちに涙が溢れてきたが彼女の桜色の唇の両端は大きく上がっていた。
「はい…。
私も先生に……カン・ゴヌさんに出会えて、結婚できて、二人の子供に恵まれて……とってもとっても幸せです。
トゥ・ルミは、世界で一番幸せな女です…!」
最後の方は感情が極まったのか声が震えていた。
カン・マエは数回小さく頷いて応えると、世間で悪評を晒されている人物とは思えないほど穏やかな笑みを僅かにこぼして再び西日を見やる。
右手の甲で涙を拭った後、ルミはカン・マエの右腕に自分の腕を絡ませて寄り添った。
「…分かっているとは思うが、もう二度と云わない」
「“こういう性格”だから?」
「そうだ」
「それじゃあ先生の分まで私が云います!」
ルミは大きく息を吸い込むと…
「トゥ・ルミはカン・ゴヌと結婚してとっても幸せー!!」
夕陽に向かって大声で叫んだ。
「おい…やめろ、恥ずかしいヤツだな」
「仕方ないわよ、私は“こういう性格”だから!
あははははは!!」
カン・マエは困ったように口を一文字に結んでフッと鼻を鳴らしたが、その瞳は優しく妻を見つめている。
日が沈み始めている日の出の丘で一本だけ立っている木と二人の影は長く伸び、その先は丘の傾斜の影と溶けあっている。
オレンジ色の光に包まれながら53歳になった世界的権威ある指揮者と15歳年下の麗しい妻のシルエットは、太陽の姿が半分ほど見えなくなるまで重なっていた。
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最終話三部作・第三夜「“こどもたち”の情景」へ。
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